週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

素直や等身大という枠

 いわゆる、世間で使われている「ひねくれ」と「素直」という枠は、表面的で、固定化されたものに過ぎないのではなかろうか。同時に、表面的な同質性によって、その本質的な側面も、同質として扱っているのではなかろうか。自分の中で、その物事と正対し、そこで感じたものを素直に表現していたとしても、その結果の言動が、素直の定義から外れていれば、それは、ひねくれと認識されるのであろう。
 いわゆる、ひねくれているや斜に構えていると言われる人々の多くは、本質的には、常識的な枠の中におり、その表現方法が、ずれているに過ぎないだけなのではなかろうか。発している言動は、文字通り素直ではないのであろうが、その事象に対して、本質的には、意外に素直なのかもしれない。もちろん、それ以前に、その物事と正対していない場合も多々あるのであろう。
 物事の受け取り方は、人それぞれという意識は、最近常識の枠の中に入りつつある様に思うが、実際には、上述の様に、受け取り方の幅は、非常に制限されている。表面的な領域において、ある事象に対しての素直や等身大という表現の仕方も、決まっていると言っても良いのであろう。それは、表面的なものであるが、本質的な側面において、皆同じであり、内包できているという無意識の前提の上で、使われている枠なのであろう。
 だからと言って、世間が変わるべきだとは思わない。枠が移ったとして、広がったとして、それは、枠外の存在が変移したに過ぎない。また、誰しも、理解されるに越したことはないが、それは、おそらく非常に難しいのであろう。そもそも是非という段階で物事を見ていない場合も多く、積極的に世間の壇上に上がりたいというわけでもない。
 ちなみに、変えようとする動きを否定しているわけではない。ただ、その存在も、世間の常識の枠の中の一つでしかないのではなかろうか。目的が同じで、その手法の違いでしかない様にも思える。
 そして、世間は、平均であり、常識であり、多数派である。そこに認められるということは、その言動であり、存在というものも、普通のものになってきてしまっているということでもある。一つの側面における存在価値は、薄れているということでもある。
 だからと言って、無理に、非常識になろうとするというのは、根本的な意義が、違ってくる。もちろん、そういった言動であり、存在にも、別の意義はある。

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