週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
                        毎月、中旬頃を予定しています。
                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

意識と行動における鶏と卵

 人の行動というのは、自身の意識によって、選択されているというのが、一般的な感覚なのではなかろうか。しかし、ある研究によれば、行動によって、意識がもたらされているという考え方もある様である。その意識は、既に脳によって、決められた選択に対して、自分が選択したと錯覚している様なものらしい。これらの話における意識は、有意識の範囲だけであり、無意識の範囲は、含まれていない。要は、有意識ではなく、無意識が自身の行動を作っているということなのであろう。
 メカニズムとしては、これらが合っている可能性もあるとは思う。ただ、そうであったとして、無意識と有意識の境界線は、どこにあるのか。無意識と有意識に境が無いのであれば、根本的な違いは、無いとも言える。そして、そこに境があったとしても、無意識も有意識の枠の中に加えることは、可能なのではなかろうか。
 そもそも、行動と意識というのは、相互に関係があり、作用し合っており、対等なのではなかろうか。それらは、有意識と無意識の関係性にも言えることであり、行動が起因を作りだしている可能性もあるのであろう。また、魂という概念があるとすれば、その前提の上で、肉体と精神が与えられているに過ぎないとも言える。肉体と精神の交互作用の下に、私というものの本体があるのではなかろうか。
 他者からの影響を受けて、同時に、他者に対して、影響を与えることで、我々も存在ができているわけである。肉体であり、有意識であり、無意識を、それぞれを独立した存在として捉えれば、それぞれに、影響を授受し合う存在とも言える。もちろん、それら同士の影響し合う量や回数の違いは、あるのかもしれない。
 そして、肉体的な側面に比べて、意識的な側面への鍛錬は、今始まったばかりとも言えるのであろう。

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