週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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乗り換えという能動性

  こんな私でも、過去に普通に働いていたこともある。ただ、朝晴れやかな気持ちで出勤したことは、どれくらいあったであろうか。ほとんど記憶になく、数えるほどであったと思う。

 ほとんどの日々において、この電車にそのまま乗って、何処かに行ってしまおうかと思っていた。もしくは、この電車が何かの理由で、停まってくれないかと思ったものである。そういう時に限って、停まらないものである。

 最近のある日に、乗り換えをする際に、ふと思ったことがある。当時、出勤中の乗り換えによって、多少なりとも、その晴れない気持ちが、解消されていたのではなかろうかと。

 乗り換えるという作業に対して、意識が割かれることで、気分転換されていたのか。もしくは、乗り換えるという作業を自身の脚で能動的に行うことで、自身でその行動を選択したことになり、多少は覚悟の量が増えていたのかもしれない。ただ、当時の少なくとも有意識においては、そうでもなかったかもしれない。

 もし乗り換えをしていなくても、通勤にある程度の時間がかかることによって、その気持ちの解消の効果は、あったのかもしれない。ただ、単に電車に乗っているのと、一度降りて再び電車を待つというのは、また違うのであろう。少なくとも、効果は、増えるのではなかろうか。

 電車一本で着くのであれば、それは、乗ってしまえばあとは、行くしかなくなる。乗り換えがある通勤よりも、受動性は上がっている。乗り換えによって、一度電車から物理的に降りるというだけでなく、精神的にも、その通勤というレールから降りることで、そこで改めて選択を迫られているとも言える。そして、自身は、出勤するということを選択していたことで、覚悟の量が増えていたのではなかろうか。

 そもそも出勤がその様になってしまっていたのは、仕事という行為において、自身のエネルギーを消耗させることしかさせられていなかったからなのであろう。消耗は、誰しもするのであろうが、同時に別のエネルギーを生み出さなければならない。それは、お金の回し方と同じ様に、循環させていかなければならないものなのかもしれない。その側面を持たないで、仕事に支配されている様な状態のままでは、長続きするはずもない。

 そして、それら側面は、どんな仕事においても、少なからず存在し、つまりは、有無ではなく、大小や割合の話なのであろう。

 

 今思えば、そもそも通学に関しても、いつからかそういった側面が、垣間見える様になっていたのかもしれない。学校という場所も、嫌いとまではいかないまでも、特別に楽しい場所ではなかった記憶の方が強い。友達は一応いたが、本質的には楽しさよりも寂しさから求めていた様に思える。恋に恋する時期がある様に。

 通学し、一応授業を受けるのは、親に対してのある種の労働の証明の様なものでしかなかったのであろう。また、通学することで、まだ一筆、常識という色に染められてしまうのが嫌だったのであろう。ただ、枠から除外されてしまうことも同時に怖かったのだと思う。そして、少なくとも、当時普通と明らかに異なる道を目指せるほど、私は、強くも、賢くも無かったのである。

 ちなみに、それらに対しての後悔は、意外に持っていない様に思う。もちろん、ないわけではない。ただ、それらのお蔭で、今の自分があり、今の自分を理解し、肯定させられているのであろう。

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