反省という行為について
ちなみに、反省という言葉には、振り返りという側面と、改心という側面があるが、一般的には、主には後者の側面で用いられることが多いであろうか。ただ、今回は、前者に関してである。
反省という形式は、意図的に行われるが、人におけるその行為は、自然に有意識の中で行われている。そして、時に無意識の中でも行われているのであろう。
形式的に行われる反省は、時にその枠を踏襲しているだけの時もあるのであろう。それは、問いだけではなく、答えにおいても行っている。そして、それは、対他者に限らず、対自分においても行っている時があるのではなかろうか。
システムやフォーマットは、安定性を向上させる一つの有力であり、即効性のある手法だと思う。ただ、その物事に対して、自信が意識を向けている側面であり、その濃度というものは、見え難くなるのではなかろうか。
一つの物事に対しての反省という行為は、ある量を過ぎると意味がなくなり、むしろマイナスになっていくとされているであろうか。ある程度の反省は必要であるが、それ以降は、それを糧にした行動に移行しなければならないという認識であろうか。
多くの場合に、それは、当て嵌まるかもしれないが、費用対効果とも言えるのではなかろうか。もちろん、それが、例え毎回同じ様に見える後悔であろうとも、何かしらの意味は、そこに存在している筈である。もちろん、その意味の大きさも、一定の量を過ぎれば、極端に小さくなるのであろう。ただ、その再考によって、その物事における新たな側面を見い出す機会は、間違いなく生まれている。
そして、それを行う際に、同時に抱えなければならない負の側面を、如何に自分の中で、負の側面として居続けさせないか。それは、消滅させることとも言えるし、ベクトルを変えさせることとも言えるか。
それを行うには、その物事との向き合いが必要なのであろう。
単一の物事への過度の行いによる、負の側面の発生は、反省という行為だけではなく、広義な思索行為全般に言われていることであろうか。これも多くの場合には、確かにそうかもしれない。ただ、それもやり方次第であるし、同時に、自身の肩書きであり、所属する枠であり、その中での立ち位置によって、その必要量は、全く変わってくる。
一つの物事への反省を深く行うことで、それ以前の昔の反省も蘇ってくることがある。多くは、後悔という形で有意識に表れるであろうか。それは、私の中にある反省という扉を開けているからなのであろう。