週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
                        毎月、中旬頃を予定しています。
                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

考え続けるということ

 その救おうとしている対象への行動。各々の中にある無意識の前提から、その行動の基準は作られているのであろう。そして、その前提は、どこのものが使われているのであろうか。自身のものか、世間のものか。
 自分がその行動をしなければ、その愛する人は、不幸になるのかもしれない。ただ、その状況は、その人が選んだ道なのかもしれない。対象が選んだ苦行の様を見る自身の感情を抱え続けるということも、一つの愛情の使い方なのではなかろうか。相手の為の行動なのか、自分の為の行動なのか。
 それらの線引きにおいて、不変の正解は無い。自分がどう決めれば良いのか。それは、常に思考し続けるしかないのであろう。
 「分からないことは、聞く。」という言葉があるが、それはものによるであろう。分からないからこそ、考えられる筈である。聞くこと自体が、悪いとは思わない。しかし、多くの場合に一つの正解を知ることで、その物事に対しての継続的な思考を停めてしまう。それは、その一つの正解を固定化させ、その他の正解に出会う可能性を無意識の中で、停止させてしまっているのではなかろうか。その固定化された正解の一つひとつが集合し、無意識の前提を形成していく。
 どの様な物事や状況においても、常に正解は存在している。しかし、不変の正解は、無いのではなかろうか。その都度に、毎回考えられるかどうか。その手法自体は、変哲はなく、非常に単純なものである。
 そもそも、物事における手法というものは、大枠としては非常に単純なものなのではなかろうか。努力を積み重ねずに、天賦の才を引き出させた者は、いないのであろう。ただ、努力を苦としない者は、居るのであろう。

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