週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

絶対的な味方と負の可能性

 村上春樹の小説の中で、睡眠について、この様に書かれていた。一部抜粋及び、やや意訳あり。
 「人には、行動・思考における個人的な傾向があり、その傾向は、概ね不変であり、それによって生まれる、偏りというものを睡眠によって、中和させている。」と。

 そもそも人は、人であるという時点で、人という一つの枠の中にいるということ。そして、その枠からは、肉体的な側面のみならず、精神的な側面においても、逃れられないのかもしれない。
 睡眠という行為によって、心身を回復させるということは、医学的にも言われていることである。それは、心身を修復させるということであると同時に、ある種の矯正であり、型に嵌めるという側面も併せ持つ。

 絶対的な味方と思っていた存在に対して見える負の可能性。ただ、それが敵になるということではない。その時であり、その期間に必要ないということであり、何かを手に入れる為に、それが足を引っ張るということ。
 何かを断てば、何かが手にできるという理論は、人が生存するのに必須とされているものにも言えるのであろう。

 意識における常識という枠を使わなければならないのか、常識という枠を活用しているだけなのか。 

 何かを断つという行為であり、勇気という側面は時に聞くが、同時に、断たないという行為であり、勇気という側面も面白い。また、ある人がそれを断たないことで、ある人が、それを断つことが出来るのであろう。
 一般的には断たなければならないという事柄をあえて、携えているということ。その上で、それを断った人が手に入れた物事を、断たずに手に入れるということも可能である。
 その存在がその手法の際に、足を引っ張っているというだけであり、不可能にしているというわけではない。つまりは、他の手法によって、獲得できる可能性は存在しており、常識における平均的な取得方法が示されているにすぎない。
 時に常識は、その手法以外を許さないが、その作用も仕方がないとも言える。その枠であり、枠における基礎が揺るがされるという危険性であり、守らなければならない場所があるということ。
 そして、人は、個という枠の感覚でそれを否定し、その行為による影響の全てを無意識の中で正当化させている。

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