週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

仮面を付け替えるということ

  人は、時々刻々と仮面を付け替えながら生きている。そして、その仮面のどれもが自分自身なのではなかろうか。ただ、同時に、どれもが自分自身ではないとも言える。

  本物の自分とは、何なのか。有るとも言えるし、無いとも言える。幾つかの意識の集合体群において、自分という枠が規定されたいるだけなのかもしれない。

 それぞれの仮面における、付け易さ・付け難さは、表面的な側面への評価なのであろう。付け難い仮面も、必要な仮面の一つであり、付け易い仮面だけが、必要な仮面とも限らない。同時に、それは、実際に日々の中で、使われているものだけに限らない。

 負を排除したとしても、残ったもののどれかしかが新たに負という役割を担うのであろう。そして、共存と排除は、常に共にいる。

 

 世間の人々は、「本当の自分を出せばいい。」もしくは、「出せたら良いのに。」と言ってくるかもしれない。その言葉を負荷なく発信できるのは、彼らが、平均という枠の中に居られているから言えること。

 世間という枠は、決して広くはない。世間が携えている枠というものが狭いとも言えるが、世間が悪いというわけではなく、その世間という存在にも、担っている役割があり、もたらしているものがある。

 人という存在は、他者との接触の連続の中で、存在を規定し続けられているわけであり、その接触がなければ存在できない。100%気を使わないと言うことは、存在できないこととも言える。

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