週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

自身における世間という要素への許容範囲

 宮沢りえ米倉涼子浅田真央など。たまたまなのか、女性という観点では、共通している。
 彼女達の雰囲気に対して酷く違和感を持つ時がある。嫌悪感に近いとも言えるかもしれない。若しくは、生理的に受け付けない感覚とも言えるのかもしれない。ちなみに、決して彼女達を有名人の一人として、嫌いというわけでもない。
 いつも元気であったり、等身大、無邪気、愛想が良い、誰にも壁を作らないなどの側面。世間は、そういった側面を評価するであろうか。ただ、時に彼女達のそれらは、ふわふわしている様な、何だか浮ついている様な、落ち着いていない様に感じられることもある。
 彼女達も、実際には、楽しんでいるのであろうと思う。ただ、何処か無意識の中で、無理している様にも感じられる。彼女達は、超有名人であり、少なからず時の人という時期を経験している。常に愛想を一定以上振りまかなければならないのであろう。
 ある意味で、そうなるしかなかったのであろうとも言える。それは、世間に負けたと言うか、服従させられたと言えるであろうか。
 それは、ある種いじめの様なメカニズムにも、共通するところがある様にも思える。いじめという表面的に受動的な形ではなく、人気者を演じるという様な表面的に能動的な形の方が、近いかもしれない。彼等のおかげで矢面に立たなくても済んでいる人が居るということであり、それは時に誰かが担わなければならないポジションでもあるということなのであろう。
 実際には、私の彼女達への違和感は、単なる杞憂である可能性もある。それは、自身の芯の部分の価値基準が、自身によって規定されているものなのかどうか。芯の部分まで、世間の価値基準に浸食されてしまったのではなかろうかという懸念。
 彼女らも、今は、一定以上のキャリアを積んでいる中堅やベテランである。世間としては、角が取れたと言われ、自身でも、自然な自分で居られていると言うであろうか。ただ、その感覚さえも、世間に整形された結果なのかもしれない。
 逆に、自身の中に世間を招き入れられるという懐の深さなのかもしれない。表面的な部分くらいは、浸食されても、自身における芯の部分が変わらないという自信。
 価値基準における自身と世間の側面の存在自体は、極普通のことでもある。その両者のバランスは大事であり、表面的な見え方は、あまり大きな問題ではないとも言える。芯の部分において、自身の基準が基となっているのかどうかである。自身の基準の上で、世間の基準との重なりの中で、発信しているのかどうか、生きているのかどうか。ただ、自身の芯の部分まで、浸食されたとしても、それが決して悪いというわけではない。
 良し悪しという基準。その存在に、我々は、支配されているとも言えるし、それらがベースを作ってくれているとも言える。

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