週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

障害者という存在に関して

 障害者という存在は、平均という枠の外側の人々の一種である。それを、平均という枠に納めようとすることで、現れる弊害の顕在化された一つの形とも言える。ただ、その作用も、自然な作用の一つとも言える。

 身体障害に関しては、根本的には、平均と何ら変わらない筈である。表層的に平均と見なされる人々でも、それぞれ何かしらの特殊な負荷を抱えているのであろうから。如何に、自身を自己プロデュースしていくのかどうか。その能力は、人という生物における特徴の一つであり、根源的な側面の様に思える。ただ、時にある程度の配慮や補助は、必要であるのであろう。

 知的障害者発達障害者とされている人々、彼等は、我々が思っているよりも、普通なのではなかろうか。彼等の映像などから、彼等が、根本的な部分では、一般的な人々と変わらないということを感じ取れる。平均よりも、バランスが大きく違っていたり、非常に大きな側面を抱えていたりということ。それは、障害者だけに当て嵌まるものではない。普通とされている者達の中にも、潜んでいる側面でもある。ただ、それ押し込めることが出来るのかどうか。もちろん、その能力も、側面の一つでしかない。

 彼等には、自我もあるし、社会という存在であり、その中における自身の状況も理解しているのではなかろうか。彼等は、それを伝える術に疎く、周囲の人々は、それを理解する術に疎い。

 周囲の人々の彼等への理解力を如何に養うのかというのは、一つ重要な側面の様に思える。障害者という分野は、社会における一つの課題であり続けると思われるが、それは、当人達の課題というよりも、周囲の人々の課題と言った方が、近いのかもしれない。

 それは、当人達が大きく変わることは出来ないということであるが、それは、彼等が枠に納まれないというわけではない。同時に、社会という存在は、良くも悪くも、大きな変化は難しい。

 二つのほぼ固定化された存在の間で、揺れる中間管理職の様に思えるからである。

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