週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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信頼

 政治家の経歴詐称や芸能人の覚醒剤所持・使用などの事件の際に、「信頼していたのに、裏切られた。」というファンのコメントをよく耳にする。そして、世間は、「彼等は、信頼を失った。」と、認識するのであろう。
 ただ、そもそも信頼という意識は、その様な状況でこそ、発生させるかどうかの選択を迫られるのではなかろうか。つまりは、そのファン達が、損失したと思っている意識は、別物であり、同時に、そこまでコアなファンではなかったのであろう。
 信頼という意識は、対象が危機に瀕している時に必要になってくるものであり、同時に、対象を自身の中で理解きしれなくなった時、信頼という意識でつなぎ止める必要が出てくる、最終手段の様なものなのではなかろうか。
 そして、おそらく、理解というのは、出来なくなるのではなく、しなくなるのだ。理解しようと意識を持ち続ければ、何かしらの理解を持てるものである。もちろん、幾つかの要因から簡単なことではない。

 基本的に人は、物事に対して、基準からの良し悪しや興味の有無によって、対応しているのではなかろうか。しかし、「なぜ、そうなったのか?」「なぜ、そうしたのか?」という視点からのアプローチは、あまりされていない様に思える。
 おそらくは、その様に問われれば、その場で答えられる者は、そう珍しいことではないのであろう。重要なのは、その意識を無意識の内に自身に問えるのかどうかであり、考え続けている姿勢を持てるかどうか。有意識の姿勢が、理解への初歩になり、無意識の姿勢に繋がっていく。
 子供は、知識という手法が少ない。だから、考えるという手法で、対応するしかない。彼らが天才なのではなく、彼らは、天才に成らざるをえないのであろう。

 彼等の様なファンの対応というものは、非常に淡泊な関係性とも言えるのであろう。ウェットな様に見えるのは、表層的な部分だけであり、その本質的な部分は、非常にシビアに対価を求める接し方である。
 ある意味で、特に芸能人という役割の者に対しては、正当な対応の仕方とも言える。それは、対象が挫折を乗り越えるまで、見守っている者達の中にも、いるのであろう。

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