週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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憂鬱

 我々が持つ感情の一つに憂鬱という状態がある。世間において、気持ちがふさぎ込み晴れないこととされ、あまり良い状態という認識ではない。むしろ、積極的に取り除くべき状態という認識であろうか。
 例えば、平均以上に社交性がある者が、ふと、「私も一人の時は、よくふさぎ込んでしまうことがある。」という話をする。それに対して、「今は、明るいのだから良いのでは。」という意見があったりする。
 ふさぎ込むという行為自体が肯定されることは、ほぼ無い様に思えるが、その行為であり、状態は、当人にとっては、一つのバランス機能による現象とも言える。社交的な自身の側面を作るために、ふさぎ込むという側面を作る。上がった後の下げる行為であり、上がる前の下げる行為。また、その逆も然り。スポーツ選手や表現者達が、本番前に自身にプレッシャーをかけている様子などが、分かり易いであろうか。
 憂鬱という状態とは、深く考え込んでいる状態とも言える。思索の海の中に、深く潜り込んでいる状態。その行き着いた場所であり、至った結果であり、行くまでの過程。それらによって手に入れられるものがある。また、逆に、高く昇っていくことで手に入れられるものもあるのであろう。それは、麻薬という存在における意義の一つとも言える。
 その深い思考の状態は、何かを感受することで発生するのであろう。何かが自身の中に入ったことで、自身に変化の可能性がもたらされる。対象を入れ込んだのか、勝手に入ってきたのか。その入ってきた物事に対して、自身がどの様に向き合うのか。そして、その一連の行為に対する意識の有無。それらによって、その行為が、表面的に落ち込みと捉えられるのか、深い思考と捉えられるのかが、決まるのであろう。
 その対象を自身の中に入れ込み、その対象がどういった存在なのかを考え込む。その行為によってしか産み出せないものがあり、その生み出す行為をしなければ活きられない者達が居る。
 その行為を有意識的に行っている者は少ないであろうか。自身が自身の中から、新たに導き出したものであり、その導き出されたものが、ある種真の自身の意見とも言えるのではなかろうか。ただ、それは、それまでの自分を乗り越えなければ見られない。
 そして、思索という行為には、感覚を言葉にするという側面がある。それは、我々の知覚の範囲において、無形だった存在に対して、仮の形を与えるという行為でもある。その存在にとっては、ある種新しい生命を与えられたとも言える。別の次元にいた彼らを、私たちの次元に召還させることができたとも言えるのかもしれない。
 ただ、その形や存在が、世間にとっても、新しく、同時に、意義を感じられるかどうかは、限らないことである。

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