教育について
「教育をしたい。」「教育に関わりたい。」という人が居るが、彼等は、何がしたいと思っているのか。おそらくは、直接的に肩書きを持たなければ、出来ないとしているのであろう。
そもそも教育とは、コミュニケーションが取れれば行えるものである。つまりは、いつでも、どこまで、誰に対しても行える行為であり、大切なものは、場や肩書きよりも姿勢なのではなかろうか。
また、対象との関連性というものは、見つけ出すかどうかである。そこにどれだけ意識を持てるのかどうか。それは、こと教育というテーマに限った話ではない。
もちろん、より直接的な関わりの方が、やりがいという意識に繋がり易いという側面は否めない。
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教育において、対象をその枠に嵌め込むという側面があるが、子供達が枠に嵌っていく姿であり、その姿を成長として喜び、褒める大人達を見て、私は、複雑な心境に陥る。
彼等は、認められることで安心と安定を得られるが、同時にそれは、服従であり、洗脳とも言える。
ただ、それは非常に重要で、必要な行為の一つでもある。
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今の教育を危惧し、変えたいと活動する者達は数多い。彼等は、今の教育を少なからず否定しているわけであるが、それは同時に、少なからず今の教育を利用している者達も、否定してしまっているのではなかろうか。
矛盾が悪いとは思わない。ジレンマを抱えてこそ、深められる側面もある。
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教育に限らず、どんなに最高のシステムであっても、それは枠の種類が切り替わっただけであり、対象を少なからず嵌め込むという側面は、消えることはない。それは、変わることのない前提の様なもの。つまりは、今の教育における、我々が思うより良いと予想されるシステムでしかないということ。
その意識を失った時に、それは、偽善的な行為として受け取られる可能性が、生まれ始める。
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人々が、今の教育というテーマを考える際に、そこにある無意識の中で規定された無言の前提がる。その部分にアプローチしていかなければ、ならないのではなかろうか。
教育とは、何をどの様に与えるのかという側面よりも、その与えられた事象に対して、対象者が個々に何を規定するのかという側面がより重要なのではなかろうか。
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今までの枠を否定し、新たな枠を作り、同様のことを繰り返す。おそらくは、我々の世代の作った枠を子供達の世代は、否定するのであろう。
そして、その行為を悲しむのか、喜ぶのか。