週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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言葉を扱う者の姿勢

 ある日の夜、私は風呂に入り、いつもの様に大きくため息をつきながら湯船に浸かっていた。いつも以上に疲れていたのか、その日のため息は唸り声に近かった様に思う。そして、その私に同調する様に、近所の犬が遠吠えを始めた。
 例えば、地球と私という物理的には非常に比肩し難い二つの存在において、つながりというレベルではなく、同調という対等性の高い関係を有意識の場に置いたことはあるであろうか。
 その様な類の言葉を発する者も、時には居る。ただ、彼等の言葉の多くは、その場の空気において、宙に浮き、そして、消えていく。時に受け止められた様に見えても、それは、その視点という側面やその空想的な雰囲気への評価であり、現実的に地に足を付けて、捉えられたものではないのではなかろうか。ちなみに、一般的な人々のその反応は、ある種の防衛本能でもある。
 そして、私は、この意識であり、言葉をどれだけ扱えているのであろうか。

 言葉を発するという行為において、個々人によって差はあるが、その言葉であり、それらによって形成された意識を扱うという行為においても、個々人によって差がある。同時に、その言葉を扱うには、その言葉にあった段階であり、姿勢が必要になってくる。それらが不足していれば、本質的にその言葉を扱えているとは言えないのではなかろうか。何よりも、その言葉に対して、その意識に対して、失礼なのであろう。
 ただ同時に、言葉を扱うという行為も他の行為と同じ様に、使わなければ使える様にはなっていかない。もちろん、練習ではなく、実践の話である。その観点から言えば、言葉が宙に浮こうとも、その言葉を使用する者は、挑戦している者とも言えるのであろう。
 もちろん、それらの全ての者が、評価に値するとも限らない。おそらくは、95%ほどは、その言葉に扱われ、乗せられているだけなのであろう。ただ、同時に、その95%が無ければ、残りの5%は、作りだすことが出来ないとも言える。
 個人の中と集合体の中のそれぞれの95:5。二つの違いは、距離感の違いでしかないのであろう。

 

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