週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

ひきこもりの表層と内実

 ひきこもりの子供を持つ親の方々に、お会いする機会は幾度かあったが、その中で「昔は、普通だったのに・・・。」というコメントを貰ったことがある。
 それは、表層と内実の違いによって起こるもの。
 人は、集合体の中で他との接触によって、その存在を確定させ、生きていくことが出来ている。集合体において必ず存在する枠というものに対して、自身を変容させ、時に納まり、時に外れ、そして、時に内外に跨る。
 そして、その変容という作業が表層的な段階で済むのか、より内実的な段階にまで及ぶのか。また、時に内実的な段階まで変容を必要としなくとも、表層的な段階において、自身の変容と社会の枠との調整が上手く付けられない場合もあるのであろう。それは、ある種手法的な話とも言える。
 その選択や折り合いは、個人の意識だけで決められるわけではなく、外的な要因も多々関わってくる。それは、有意識だけでなく、無意識においても感受され、同時に、その外的な要因も、悪意だけでなく、善意による影響もあるということである。
 また、そもそもの要因として、答えを規定させているという現状から生じていることとも言える。それは、正解を求めてしまっているということでもあり、変えられる際の枠をも固定化させてしまっているとも言える。
 それは、今、私が提示しているものが、例え正解だとしても、それを固定化させてしまえば、また同じ構図を生み出す可能性を作っているということでもある。
 そして、手法や結論というものは、意外に奇抜なものには成り難く、だからこそ、その過程の違いが見え方の違いへと繋がっていくのではなかろうか。

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