優しさにおける偽善的側面
「考え過ぎなんじゃないか。」「もっと気楽に考えればいいんだよ。」という言葉は、思い悩む者に対して、善意の気持ちで使われているであろうか。その言葉は多くの場合に、対象に精神的な余裕を作らせることに繋がっているのであろう。それは、社会における平均であり、広義な常識の一つでもある。
稀有な場合に、その言葉が、単に否定にしかならない対象もいる。彼等は、平均よりも考え過ぎることで、自身を確立させうる者であり、同時に、思い悩むという行為の苦しみという側面を含め、その行為の深みや味わいを見つけられているのではなかろうか。少なくとも、自身のそう様な側面と共生していく覚悟を持ち得ているのではなかろうか。
誰かのことを想い、誰かの為に起こす行為というものは、少なからず評価されて然るべきであると思う。ただ、その行為を対象が、どの様に受け取り、判断していくのかどうかは、常に決まった答えは、存在しないのではなかろうか。我々の無意識の中に感じている不変に近い価値基準というものは、我々の中における平均であり、流行でしかないということ。
誰にしも起こし得ることであり、放たれる仄かな違和感から、無意識の前提の相違を見つけ出せるのかどうか。
ただ、それは、全ての者において可能ではないというのが、現実的なところなのであろう。その様な者に対して、理解を求めることは、期待という領域から、甘えという領域に移行してしまっている。
そして、その様な理解し得ない側面から、信頼という存在は、生まれたのかもしれない。