小手先
小手先という存在を昔から、嫌悪しているし、当人が本気で取り組んでいることに対して、私だけ小手先の様に感じてしまうことも少なくない。それは、今も大きくは変わらない。
ただ、気にしなくてもよい小手先があり、どこは逃げてもよいが、どこは逃げてはならないのかということは、知っている。もちろん、その見極めが簡単とは限らない。
どれを小手先とし、どれを本質的とするかは、人それぞれであるし、それまで本質的だったものが、小手先と化すこともある。それは、一つの段階の超えたということでもある
本質的であっても中途半端なものであれば、対象は、中途半端に解消されてしまう。逆に、小手先によって、その場を凌ぎ続けることで、対象を追い詰めることが必要な場合もあるのであろう。
小手先という概念であり、その行為自体が、不要や無意味というわけではない。
小手先の手法によって、その場をやり過ごせたこと、その課題を一時的にでも、解決させることは、本質的な手法では、成し得なかったかもしれない。
それは、多くの場合に、問題の先送りとされるが、先に送り続け抱えたままゴールしては、駄目なのであろうか。小手先をそのまま本質化させても、よいのではなかろうか。
時に、小手先の方が、良い場合もある。一つの括りのおいて、ある側面をより本質的なレベルに上げない方が良いこともある。例えば、人という存在において、時間という資源の有限性を鑑みれば、そんなに、多くの事象に対して、深化させられないのではなかろうか。
ある意味で、人に対して、制御し、取捨選択し、一点集中するという手法を与えているのは、彼らなのかもしれない。
それは、思想にも意志があるということであり、同時に、広義の集合体に所属し、構成している一つの要素であるということでもある。