週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

変わらない嬉しさの本質

 以前に、とある治療をした時に、数か月間食事制限を医者から言い渡された時がある。別に、食欲は普通にあるのに、好きに食べられないという状況。
 その時にコンビニで買った一つのパン。チーズのパンだったと思う。それを買って、食べた。美味しかった。その時は、ただ美味しかったという記憶だけが残っていた。
 後日、仕事中にふと、そのチーズのパンのことを思い出す。終わったら、食べようかと。そのことで、少しだけれども元気が出せている自分に気が付く。
 普段なら、帰ってからの晩酌のメニューでも考えるのであろう。高々、コンビニで買える決して高くない菓子パンである。それがご褒美にできている自分がいたということ。
 嬉しさの本質。経済的な理由にしろ、体質などの理由にしろ、食事制限であったり、食べれるものが限られているという状況。一般的な人にとっては、日常的であり、大したものではなくても、彼らにとっては、非常に嬉しいものであることもある。それを特別なものにできて、それをご褒美にできる。その喜びの幅はもちろんのこと、質としても、同じものなのではなかろうか。
 単なる菓子パンやヨーグルト、お汁粉が、一般的な人々にとっての寿司やうなぎ、ステーキと変わらないということ。好物だからというわけではなく。普通の人にとってのただの砂が、砂金に感じられるかもしれないということ。
 単に、客観的な視点が入ることで、その本質の査定を狂わせているということなのであろう。現に、子供にとって、その感情が、正しい様に。
 そういった側面を隠す人もいるのであろう。まあ、態々、言わないというだけの人も多いのかもしれない。ただ、それは同時に、そういった側面に対して、驚いて、引いてしまう人もいるということなのであろう。
 何か特別なことをしているからというわけではないのであろう。例えば、研究者などが、一般人と感覚がずれていると感じるのは、そもそものベクトルや指標が違うからである。そうではなく、ベクトルは、同じ方向を向いているのではなかろうか。
 もちろん、虚構というわけでもない。
 人は、楽しみを作り出す。褒美を作り出す。通常を作り、上下を作り出す。それは、自然に作られるのか、自ら作るのか。
 それは、自身における自身への支配であり、指導であり、指揮なのであろう。

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