週刊Coelacanth

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人の価値は、「今」で決まるのであろうか。

 人の価値は、「今」で決まるのであろうか。
 昔は、イケメンで、成績が良くて、モテていた人が、同窓会では、極普通の人になっている。昔は、太っていたり、友達が居なかった人が、出世していたり、有名人になっている。
 一般的には、前者よりも、後者の方が、評価される場合は多いのではなかろうか。ある意味での価値は、前者がもっと上なのではなかろうか。総合的には、あまり変わらないのでは。ある意味で、後者は前者に、ようやく追いついた、同じ程度になったに過ぎないとも言えるのでは。
 昔経験したかったけれどもできなかったことを、今できているから昔のことがチャラになるのかどうか。その時期でしか得られないものもあるということ。今経験できているから、別に良いとも限らない。多くの場合に、総合的に考えて妥協しているだけなのではなかろうか。過去に戻れないのだとすれば、妥協するしかないと。だから、後悔がないと言えば嘘になるのではなかろうか。現状への満足感から、過去に対して納得しているだけなのであろう。
 先に何かを獲得できたのであれば、ある意味での満足を得られているということなのではなかろうか。もう既に、評価や経験、承認を得ているということ。だから、落ち着けるのかもしれない。
 逆に、得ていなければ、貰っていなければ、いつまでも、追い続けるのかもしれない。年甲斐もないことをしてしまったり。そういう意味では、前者の方が、良いのではなかろうか。その歳で、することって、ある意味では、定められているわけで。形として、得られているからと言って、承認を得られているとは限らないのであろう。もちろん、得ていないものがあるからこそ、続けられる原動力になる場合も多々あるのであろうが。
 例えば、幼少期に、周囲から、浮いていたり、隔たりがあった天才や偉人は、幸せだったのであろうか。もちろん、評価されている時は、嬉しかったり、何かに没頭している時というのは、楽しいのかもしれない。また、実感という意味では、確かに、今とされる時の状態というのは、重要視されるか。ただ、社会的に評価されることが、自身が評価を実感できるとも限らないのであろう。
 過去は、清算できるということか。清算される、されてしまうということか。そういうものでもないのではなかろうか。そのマイナスが、消えるわけでもない。今が、良いから、過去の事象が消えるわけでもない。そんな簡単なものではない。記憶から思い起こす頻度や濃さは減るのであろうが。悪い行いが消せないのであれば、善い行いも消されないのではなかろうか。
 過去は、加味されるのに、なぜ、未来は加味されないのか。見えないからか。見ようとしないからか。
 昔の自慢をしては、ダメなのか。まあ、今の話だとしても、自慢すること自体が、敬遠されがちか。
 人は、環境の違いによって、発揮される才能や埋もれる才能があるという話とは、あんまり関係ない。人の評価や自己の評価という話とも、ちょっと違う。

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