週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

束縛と承認。束縛と飛散。

 自由とは、束縛の上に成り立つ。それは、そもそも束縛しなければ、存在自体を規定しえないからである。
 根本的な意味で、自由に存在を可能にしているものは、あるのであろうか。所謂、自由という状態とは、一つの枠の中において、選択権があるということでもある。
 自身という枠への束縛とは、同時に、その他の存在に対しての拒絶であり、否定でもある。その存在を成立させる為には、それ以外をその存在ではないと否定し、拒絶しなければならないのだから。
 ただ、その拒絶であり、否定は、同時に、そうでなくてもいいという承認でもあるのではなかろうか。ある意味で、否定とは、同時に承認でもあるということ。あなたは私ではないが、同時に私でなくてもいいという承認であり、許可。私以外の何かしらであるという規定。一つの行為における表裏一体性。

 存在の規定に関して言えば、物理的な存在という側面に寄っているところはあるかもしれない。それぞれの個々としての存在をどこまで認識させるか。
 物理的という側面での認識は、容易か。ただ、人々の意識という側面で見ていけば、その存在は、無数に飛散しているとも言えるのであろう。
 著名人や有名人、偉人は、分かり易いか。生きている内はもとより、死してなお、他者に影響を与え続けている。ただ、それは、どんな人間であっても、影響の有無としては、同様である。完全にその人個人の中だけに留まり切ることは、できないのではなかろうか。
 現世という限られた範囲で言えば、それは、可能とも言えるのかもしれない。自分を知っているものが、全て消滅してしまえば可能だと思うかもしれない。
 ただ、自分を知ったことで、その人に対して、少なからず影響を与えているわけで、厳密に言えば、自分を知った人の関係者全員に、間接的とは言え、自分が与えている影響は、ゼロではないのであろう。

 そういう意味で言えば、何処の時代の誰であっても、影響し合っているのであろう。全ての物事は、少なからず、繋がっているのであるから。
 私は、あなたでもあるし、あなたは、私でもある。私の中にあなたの要素はあるのであろうし、あなたの中に私の要素はあるのであろう。
 私の中に、この世の全ての存在の要素が、含まれているのではなかろうか。ゼロという一つの値も含めて。

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