週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

私の祖父という距離感

 祖父という存在は、また違うのであろうか。父とは。
 父という存在に対して、逆とは言え、相関的には、同じ距離感に居る者同士。祖父と父であり、父と子。上司に対して、同じ距離の同僚。一人の男性に対しての恋人と、浮気相手。それぞれに、どこかしらに共通の共感があるのであろう。
 父と祖父。子供から見た存在としては、大きくは変わらないのかもしれない。要素としては。甘やかす存在であったり、監督する存在、躾ける存在、矯正する側。同様に、祖父から見た、子であり、孫に対しても、同様の要素はあるのであろう。
 何が気になるのか。正直、そこまで仲が良かった印象もない。同時に、悪かったというわけでもないが。
 自分の中で、直接的な接点が多くなかったから、祖父という存在を具現化できていないのかもしれない。兄弟が居なかったら、どんなものか分からない様に。
 確かに、日常的に会う機会は、無かったし、私が、世代の中では、かなり若い方だったので、両方の祖父と酒を酌み交わす様な機会も、ほぼ無かったと思う。2人とも90歳過ぎまで生きたが、私が20代前半の頃には、2人とも他界していた。
 ただ、話は親から聞いていたし、他の親族からの話も、それなりに聞いている。また、コミュニケーションを取った量は、少なかったかもしれないが、幼少の頃は、それなりに同じ空間に存在し合っていたことはあったと思う。だから、全く知っていないという程ではないのであろうし、具現化されている部分もなくはないのであろう。
 ただ、それらは、想定であったり、人伝でしかない。それらの情報を、直接的な接触において、確認して具現化させる作業は、行えていなかったのであろう。だから、情報は、十分に得ているけれども、ずっと想像の域を出てこない存在なのであろう。
 我々は、日々の接触の中で、想定と具現化を繰り返しているということなのかもしれない。まあ、態々、想定を経ずとも、先に具現化されている場合も多々あるのであろう。ただ、その具現化から、想定されていく側面はあるのであろう。
 想定は、常に、存在し続けるのではなかろうか。全てを具現化し切るということは、その存在が、もう変化しないということなのであろうから。
 それも一つの関係性か。一つの距離感とも言えるか。その距離感しかないという関係性。そこを経て、仲良くなったという人は、居たりもするのであろうが、今後それ以上の距離になることは、おそらくは、ないのであろう。
 知っていると言えば、知っているが、知らないと言えば、知らない。テレビの中の人よりかは、近いとは思うが、家族や友人という距離には、程遠い。距離感で言ったら、家族よりも、テレビ側に近いのかも知れない。それは、親戚の人やクラスメイトレベルの人、知人などにも言えることなのであろう。
 そこから見えてくるもの、得られるものもあるのであろう。仲が悪いからこそ見えるもの、得られるもの。もちろん、見えないもの、失うものもあるのであろう。自分が見たいかどうかは関係ない。それが、他に活用できるかどうかは、限らない。
 向こうは、どう思っていたのであろうか。丁度いい距離感だったのか、近付きたかったのか、離れたかったのか。
 その人が、幸せだったのかどうかという話は、その人にしか分からないとも言える。まあ、「どう思っていたか?」という問いなのであれば、確かにそうとも言えるのであろう。ただ、「どう思っていたのであろう。」という疑問なのであれば、その限りではないのであろう。
 後者は、答えを知りたいわけではなく、ただ、考えたということ。考えたいということとは、違う。
 若しくは、ある意味で、他者の発する答えを信じていないのかもしれない。それは、そもそも、その人自身でも分からないこともあるのであろうし、問われて、有意識で、答えたその言葉が、自身にとって正解とは限らないのであろうから。

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