週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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彼らも、そこに存在している

 「鷹村守が言っていた。」
 漫画「はじめの一歩」の主要人物の一人である。「所詮は、漫画の人でしょ?」と思われるのであろうか。
 どんなに素晴らしいことを言っていたとしても、フィクションの人の言動であって、実在の人物の言動とは違うものとして、正当な評価は、得られないのではあろうか。
 ただ、基本は同じなのであろう。少なくとも、人伝という部分は、同じ様に思う。友達が言っていたのと同じ。テレビなどで、著名人や専門家が言っていたのと同じ。友達の話を、私が聞いて、別の友達に伝える。鷹村守の言動を、私が見て、別の友達に伝える。
 鷹村守という人物が、ある意味で実際に存在しているということ。彼の言動を、作者が書いたということ。根本的には、伝記と同じなのでは。彼にも、我々と同じ様に、人格があり、存在しているということ。
 人格や存在をどの様に、規定するか。認識するか。人だけではなく、動物にも人格があるということ。人格とは、思考であったり、感情であったり。
 所謂、ほ乳類は、理解し易いか。鳥、爬虫類、魚類もギリギリいけるか。昆虫であり、植物。まあ、生物は行けるか。
 山や岩、川など、自然と認識されるものにも、そういった感覚は、持ち易いのではなかろうか。地球も然り。つまりは、家具やノート、鞄などの物理的な存在にも、人格は、あるのでは。
 そして、物体を持たないものにも、存在があり、思考し、感情を持ち、人格を携えているのでは。思考であり、感情、論理、思想etc. 彼らも、それぞれに、存在しており、思考し、感情を持ち、人格を携えているということ。
 論理も、我々の世界に、出てきたい者と、出てきたくない者がいるのであろう。出てきたいけれども、出て来難い場合もあるのであろうし、その逆も然りなのであろう。
 つまりは、想像の中の人々も、ちゃんとした、明確な一つの存在であり、人格を有しているのではなかろうかと。感情があって、思考していると。
 役名がある者はもちろん、モブキャラクターもそうなのであろうし、画面や誌面に映っていない者も、多数に存在しているわけで、その彼ら一人ひとりも、明確に存在し、思考し、感情を持ち、人格を携えているのであろう。
 そして、我々が、そういった世界の一端である可能性もあるということ。
 ちなみに、フィクションと、ノンフィクションも、根本は同じとも言えるのであろう。想像は、事実の側面や欠片の集合体である。また、100%忠実に事実を再現することは、できるのであろうか。ノンフィクションが、事実を基にしているということなのであれば、フィクションも事実を基にしているという点は、根本的には、変わらない。取材だって、取材された人が、真実を言っているとは限らない。
 その作品の中で、その人物が、独り立ちしていくということ。例えば、漫画「バガボンド」における主人公の武蔵。作者の井上雄彦氏の密着ドキュメンタリーで、苦悩する様子や言動を見て、彼に何かをやらせるのではなく、彼のこの先の言動を想定していくという作業の様に思えた。出すのではなく、解く。創造ではなく、読解。「彼にこの状況で、何をやらせようか。」ではなく、「彼なら、この状況で、どうするのか。」と。
 作者の言葉を、鷹村守に言わせて、読者に伝えるのか。鷹村守の話を、作者が漫画にして、読者に伝えるのか。
 例えば、作者が、簡単に、その作品を収められなくなってしまうというのは、分かり易いか。その作品という人格が、その人の想定を超えていったということ。成長ともいえるし、単にその人の見誤りということかもしれない。その作品が人格を持ったということかもしれない。
 そのキャラクターは、作者が創造したのか、作者が召喚したのか。作者は、そのキャラクターを自ら、創造したのかもしれないし、元々どこかしらに存在していたものを、召喚したのかもしれない。所謂、SFにおける召喚士や魔法使いと、漫画や小説、アニメの作者は、どう違うのかと。
 ちなみに、言語も、ある種の召喚ではある。創造したのかもしれないし、元々あったのかもしれない。言語によって、我々の思考であり、感情に対して、我々の知覚の範囲において、一つの形を与えることができる。また、我々は、言語を身に着けたことで、論理を召喚できる様になったのであろう。

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