週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
                        毎月、中旬頃を予定しています。
                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

例え、一瞬の些細な出来事であったとしても

 学校に行かない方が良かったとも思わないが、行っていて良かったとも思わない。生まれてきて良かったとも思わないが、生まれてこなければ良かったとも思わない。
 働くことと似ているのか。そんなに多くの人々が、仕事にやりがいを強く持ってやっているのであろうか。同時に、絶望しているのであろうか。働いて良かったとも思わないが、働かない方が良かったとも思わないのでは。
 「そういうもの」という捉え方とも違うか。「そういうもの」は、諦めに近いか。
 多くの人は、聞かれれば、良かったと答えるのかもしれない。
 家族と同じ様なものなのかもしれない。好きとか、嫌いとかではないということ。まあ、好き嫌いはあると言えばあるのであろうが、だからと言って、家族でなくなりたいということとは違うものの様に思える。
 一方的に与えられたものなのだから。まあ、「有意識における選択した記憶がない。」と言った方が、哲学的には、より正確なのかもしれない。学校に行くという行為を与えられ、働くという行為を与えられ、生きるという行為を与えられている。
 時に、その状況が、自分に合っていれば、楽しいとか、良かったと感じる結果になるのであろう。まあ、自分で開拓しろって話になるのか。確かに、その通りで、それは、ある種前提の話。ただ、まあ、そういう話でもない。良し悪しを言いたいわけではない。不幸を知ってほしいわけでもない。合わないなら合わないなりに、得られているものもあるということでもある。合っていたら、今自分が感じている全ての物事が、変わっていたのであろう。
 そういう意味では、まあ、良かったと言えるのかもしれない。というか、そもそも、一つの側面として、幾らでも、良かったと言うことはできるのであろう。ただ、良かったと、言えるか、言えないかって話ではないということなのであろう。
 そこに行っていたから、今の自分が存在しているのであろう。逆に、行っていなかったら、違う自分が存在していたのであろう。その体験をしていたから、今の自分が存在しており、逆に、していなければ、違う自分が存在していたのであろう。

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