週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

存在について

 存在するということは、他の存在との接触によって、存在を可能にしている側面はあるのであろう。それは、その存在と、その存在以外の存在との境界線の設定でもある。同時に、その存在以外の存在を拒絶することによって、成立するとも言える。否定とも言えるか。その存在以外は、その存在ではないという否定。
 想像は、創造でもある。我々の世界であり、我々自身が、何かの存在における、そのたった一瞬の想像の中での出来事なのかもしれない。映画「マトリックス」の様な世界を、ある1つの可能性として承認するのであれば、大小の違いはあれども、同列の話なのであろう。
 我々にとって新しい概念や思想、理論の誕生は、創造されたものの様に思われるかもしれないが、それは、発見かも知れない。物理的なものと同様に。それは、概念という存在にも、意志であり、意識であり、思想があるかもしれないということ。彼等も、夢も見るのであろう。彼等は、見つけられたかったのか、見つけられたくなかったのか。
 一つの存在の規定とは、新たな存在の誕生とも言えるし、存在の集合に対しての単なる枠の設定とも言えるのかも知れない。
 未知の生物は創れるのであろうか。既知な存在の集合や他の側面の発見ではなく、ある意味で、100%未知からの創造。存在されない存在を、創造するということなのであろうから。
 出来るのではなかろうかとも思うが、イメージは、全くできない。ある意味では、日々その様なものなのかもしれない。日々の中で日常的に、恒常的に、100%の未知の存在を創造し続けているのかもしれない。それが、常識化することで、前提化することで、認識を困難にするということはあるのであろう。
 一年間というものも一つの存在なのであろう。一カ月であり、一週間であり、一日であり。つまりは、時間というものも存在。概念であり、存在。時間という存在における概念という一つの側面。
 生物であり、物理的な存在であり、精神的な存在、思想という存在、概念という存在、行動という存在。それらにも、同様に、意識や思考があるのであろう。それらも、同様に、生物であり、物理的であり、精神を持ち、思想を持ち、概念があり、行動をするのであろう。そして、存在も、一つの存在であるのであろう。

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