粗削りな原点
なぜ、心のエネルギー・精神的なエネルギーが、なぜ無限ではないのかと。さらに言えば、そもそも、なぜ、エネルギーであり、資源に、限りがあるのかと。さらに言えば、そもそも、全ての物ごとにおいて、なぜ限度があるのかと。
限度があるというよりも、限度を設定しているということなのであろう。限度を設定せざるを得ないというか。
階段を一つひとつ上がっているだけとも言えるか。そういう意味では、限度はないのであろう。限界を設定もしていないのであろう。
エネルギーにおける限界というのは、エネルギーの消費されるという側面が必要なのであろう。同時に、消費されるから、生産も必要になってくる。つまりは、エネルギーの限度というのが、消費に対して、生産が追い付いていないとも言えるのか。
そういう意味では、確かに、身体的・物理的なエネルギーは、実感としては、掴み易いか。実際に減っていくものとか、摂取しているもの、排泄されるものが、視覚から確認されているのであるから。
ただ、それが、なぜ、精神的な部分にまで、同様のことが当て嵌まるのかと。それは、精神的なエネルギーは、肉体的なエネルギーと同様のもの・性質であるという先入観があるのであろう。だから、精神的なエネルギーにも、限度があるということか。
同じ人間という枠の中に存在しているからであろうか。可能性は十分にあるとは思う。ただ、精神的な側面が、果たして、肉体的な面と同様に捉えて良いものなのか。
そういう意味では、肉体的な側面においても、先入観があるとも言えるのであろう。実際に、食べなくても、活動している人々はいるわけで。少なくとも、固形物や液体を摂取せずとも、他からのエネルギーの接種の仕方は、あるのであろうから。植物のそれも、動物から見れば、十分に、不可思議であるし。
そもそも、肉眼で捉えているものが、正しい、合っている、理解や認識しているものが、正確であるという保証は、どこにもない。実際に、何かを摂取しているのが、本当なのかどうか。
だからと言って、無限というわけでもないのであろう。ある種、無限とは、存在が限りなく続いているとも言えるが、それは、同時に、存在していないとも言えるのであるから。そういう意味では、限度があることで、存在を規定させられているとも言えるのであろう。限度とは、規定であり、そして、否定とも言える。
エネルギーに限りがあることで、エネルギーという概念が、我々の意識の中で、存在を可能にしているのかもしれない。
同時に、存在とは、消費と生産の連続性とも言える。その一連の作用を客観視・遠くから見て、存在という一つの固有の枠として捉えているに過ぎないとも言えるのであろう。