週刊Coelacanth

小川作文講座 http://ogawasakubun.blog.jp/

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                        現在月一回の更新になっております。
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                        過去の記事も見ていただければ幸いです。

切っ先

 理解とは、変化なのであろう。その事象を受け入れるということ。変わらなければ、理解はできないのではなかろうか。

 自分という色彩に、他の色彩を混ぜ合わせるということ。どんなに色を重ねても、変わらない、変えられないキャンバスを持てるかどうか。ただ、それは、その絵画において、決して、見えるものではない。

 相手を理解しようとするのであれば、自分が変わる覚悟がなければ、本質的な理解は、できないのではなかろうか。だから、理解という行為は、難しく大変。だから、常識を作ったのであろう。

 例えば、勉強における理解の場合は、そもそも、成長したい、変わりたいと思っているから、学びに行くのであろう。だから、需要と供給は、合ってくる。何かしらの体験も同じ。

 逆に、変わりたいと思っていなければ、学びたいと思わないのであろう。少なくとも、それによって、得られるものがない、その得られるものに必要性を感じないから、学びには行かないのであろう。

 また、変わりたくない、染まりたくないと思う場合もあるのであろう。怠惰かもしれないが、自己防衛かもしれない。それによって、変わって、その変わった自分への保証を誰がしてくれるのか。

 変化が、常に、新鮮で、常に、利益をもたらしてくれるとは限らない。同時に、変化を常に、受けられる状態とは限らない。理解する為には、余裕も必要なのであろう。大人であろうと、子供であろうと。

 常に、次の答えを導き出すということが、正解ではないのであろう。答えを見つけるということは、ある意味では、技術でしかないとも言えるのであるから。抱え続けるという選択肢。そのことで、私におけるその事象は、熟成されていく。

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