逃避ができるということ
逃避や愚痴という行為は、自身を管理している存在への反抗の一種なのであろう。自己の管理という機能の一部を代替化されているという自覚は、薄いのであろう。ただ、全ての側面において、自律する必要性があるとは、思わない。
逃避ができる状態というのも、ある意味では、幸せなのかもしれない。その逆は、出来ない状態ではなく、選ばない状態という方が、近いであろうか。
愚痴も似たようなものかもしれない。愚痴という行為は、その課題との距離を遠ざけ、その物事の本質への読解からは、一歩離れるのであろう。ただ、その距離によってでしか、見られない側面というのは、常にあるのであろう。
ちなみに、逃避と試行錯誤というのは、時に、表面的に見分けがつき難くなる。また、何もしないという状態と、何もできないという状態の差異も見え難く、表面的な両者は、同質に見えるのであろう。
愚痴を言わないのが、常に良いというわけでもなく、愚痴を言うのが、常に悪いというわけではない。正解があるとすることであり、求める無意識の前提。
平凡という分析が、常に、否定として発せられているとは限らない。ただ、批判であれ、分析であれ、称賛であれ、確かに受け手がどう捉えるのかというのは、一つの正解でもあるのであろう。